樹安の日々インスピレーション

日々の生活の中での気づきを、徒然なるままに

魂の自由

久しぶりに苦しい。とっても苦しい。

息が詰まりそうだ。

 

狭い世界の中で起きていることだと

わかってはいるけれど

日々のシカトの積み重ねは

さすがに辛い。

 

たぶん相性の問題だとは思うのだが

さすがに辛い。

 

輪の中に入れない自分は

ダメ人間なのか?

仲間にすら入れてもらえないことが

こんなに辛いとは。

 

 

でも、こんな時こそ考えてみよう。

果たして私は

本当に仲間に入りたいのか?

 

もしかしたら…

一旦仲間に入ってしまうと

今度は狭い枠の中で生きる必要があって

 

仲間に加わることで

自由を奪われてしまうのでは

ないだろうか?

 

 

私は孤独でいることを選ぶのか?

それとも自由を奪われてもいいのか?

 

今の私は、たとえ孤独であっても

自由を奪われるのはゴメンだ。

 

もしかしたら

私が持つその姿勢が故に

シカトされてしまうのかもしれない。

 

 

今私がいる場所は

本当に息が詰まりそうだ。

そんな中で

如何にして自由でいられるか?

 

魂の自由は、誰も奪うことができないはず。

これからは気持ちを新たに…

 

シカト?上等じゃない!

こちらからしっかりと境界線を引くべきなのだ。

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嵐の中に立つ

今、私たちのまわりに吹き荒れている嵐。

新型コロナウイルスに対する、様々な人の様々な思い。

自粛と解除の間で揺れ動き、私たちの生活や感情までもが振り回されている。

 

今、私たちのまわりに吹き荒れている嵐。

頻発する地震や、時折襲いかかる大雨。

大災害の前触れではないか?と疑いを持ってしまう人も多いかもしれない。

 

今、私たちのまわりに吹き荒れている嵐。

次々に明らかになる不祥事や事件。

人間の闇の部分、欲にまみれた本質が、これでもか!と見せつけられている。

 

これから私たちは、吹き荒れる嵐の中をどう生きていけばいいのか。

 

 

先日久しぶりに、テレビで「レイダース・失われた聖柩(アーク)」という映画がやっていたので、ついつい最後まで見てしまった。大好きなインディ・ジョーンズの冒険シリーズの中で、この映画は記念すべき第1作目に当たる。

考古学者であり冒険家でもあるインディ・ジョーンズが、敵であるナチスの一団と、お宝であるアークを奪い合う冒険活劇のクライマックスの場面。(ここから先は映画内容のネタバレです。すみません…)

 

 

インディたちが探し当てたお宝である、アークという名の聖なる柩、つまり棺桶。巡り巡って、結局は敵であるナチスの手に渡ってしまう。

儀式を行うために一団がやってきたのは、とある孤島。

インディは幼馴染の女性マリオンとともに柱にくくりつけられている。ナチスの一団は儀式を始め、アークの蓋を開ける。

 

中にあったのは…ただの砂。

一団がガッカリしたと思った矢先、砂の中から、霧のような?煙のような?無数の白い魂が飛び出してきて、辺りを飛び回る。

その光景にうっとりと見とれる一団。しかし…その魂が牙を剥き、一団に襲いかかるのだ。

 

異変を感じ取ったインディは、マリオンに何があっても必ず目を閉じていろ、と指示を出す。

辺り一面を吹き荒れる嵐の中を、インディとマリオンは目を閉じて耐え続ける。

ナチスの一団は嵐に飲み込まれ、肉体も魂も何もかもが粉々になり、嵐とともに巻き込まれて、全てのものがアークの中に吸い込まれてしまった。

 

嵐が収まり、インディとマリオンが目を開けると…そこにあったのは、しっかりと蓋が閉じられているアークだけ。

アークの中に蠢いていた、無数の魂が巻き起こした怒涛の嵐の中を、インディとマリオンの2人は耐え抜いたのだ。

 

 

自分を信じ、嵐の中にじっと立ち、耐え抜いたインディとマリオンのように。

これから私たちのまわりに、どんな嵐が吹き荒れようとも…自分を信じて、その場に立ち続ければいいのだ。

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たとえ、どんなことが起きようとも…である。

人を信じること

会社での上司と部下とか、家庭での親と子とか…経験者が未経験者を育てていく場合には、いろいろなやり方がありますよね。

大きく分けると…相手を信頼して課題に取り組ませるのか?または敢えてトラップ(罠)などを仕掛けて、壁を乗り越えさせることで成長を期待するのか?に分かれると思います。

もしかしたら、気づきという意味では後者の方が効果的かもしれません。でもトラップを仕掛けるという時点で相手を信用してはおらず、さらに言うと相手を騙しているわけで…仕掛けられた方は、そこに気づいた時点であまりいい気はしませんよね。

 

実は今日、間接的ではありますが…とあることで、私自身もトラップを仕掛けられた一員であることがわかりました。結果としては、壁をうまく乗り越えられたとは思いますが…正直あまりいい気はしませんでした。

私は間接的に仕掛けられた立場ですが、直接トラップを仕掛けられた人たちは、たぶん自分たちがトラップを仕掛けられたことに気づいていないと思います。まあ気づかずに過ぎた方が、ある意味幸せかな?とも思いますが…。

 

今回トラップを仕掛けた張本人たち…そもそも、人を信じる気持ちが足りないのかもしれません。

相手を信じて、見守りながら成長を待つ。なかなか辛抱のいる作業ですし、時間もかかります。

それができないから、信じて待つことができないから…トラップを仕掛けることで、すぐに結果を求めてしまったのかもしれません。

でも…そんな方法では、人との本当の絆を育むことなんて、とてもできないと思います。

 

平穏な日常生活の中では、なかなか人との絆なんて見えてくることはないかもしれません。が…

何かが起きたとき、非常事態に陥ったとき…誰のことを信じて、行動を起こすのか。

そんなときに、自分にトラップを仕掛けてくる人間よりも、自分のことを信じてくれる人間を信用するのは、目に見えていますよね。

 

わかりやすい形ですぐに結果を求めるのではなく、じっくりと辛抱強く、時間をかけて育てていくこと。

人を疑ってかかるのではなく、人を信じ切ること。

こうした積み重ねが、人と人との本当の絆を紡ぎあげていくのだ、ということ。

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…その大切さを、身をもって感じた1日でした。

 

 

追記:このことを考えれば考えるほど、腹が立ってきてしまい…酒でも飲まなきゃやってられず、久しぶりに夜な夜なワインを飲んで、久しぶりに二日酔いの朝です。

人に信用されないって、こんなに悲しいことなんですね。こんなに情けない気持ちになるんですね。

 

私はある程度自分の軸ができてきたので、こういうことが起きても以前のように自分を責めることはなくなりました。

逆にトラップを仕掛けた人たちのことを、本当の愛を知らない、ある意味で可愛そうな人たちだな…とさえ思うようになりました。

自分自身と向き合い続けること、課題を乗り越え経験を積むことで、少しずつ理想の自分に近づいてきているような…そんな自分を、少しだけ誇りに思います!

朱に交わるか?交わらないか?

「朱に交われば赤くなる」…朱色が入り混じれば赤みを帯びるように、人は付き合う人の良し悪しによって善悪どちらにも感化されるものだ、という意味の慣用句です。

 

少し前の記事に書いた、とある人のこと。

その人は発達障がい児を持つ母親として、発達障がい児のために活動をしていたはずなのですが…小学校のスクールカウンセラーとして働き始めてからは、いつのまにか親の立場ではなく、学校の先生側の立場として物事を考えるようになってしまいました。(恐らく本人は、このことにまだ気づいていないと思います。)

彼女は朱に交わり、赤く染まってしまったのです。

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私自身もまた、今いるとある場所に関して…最近ものすごく違和感があります。今まで何となく感じていた居心地の悪さとか、うやむやにしていたことがはっきりしてきた感じがします。

私が持つ考え方と、そこにいる人たちの考え方は、決定的に違います。これはもう、どうしようもないことです。

今までの私であれば、もしかしたら朱に交わって赤く染まっていたかもしれません。でも、今の私には揺るがないものが確実にあります。特に発達障がいを持つ子供たちのことに関しては、譲れない想いがあります。

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「もうさぁ、何もわかってないんだよ。あいつらさぁ…」

私が朱に交わることは、絶対にないと思います。

本当に強い人間とは?

一見して強そうに見える人や、立場が上の人であっても、その中身は案外弱かったりすることもある。

 

その大きな理由は「立場」という鎧に守られていること。

その立場を得るまでには、その人なりの苦労があったのかもしれないが…一旦得てしまったその立場を利用して、人を操ることは簡単だ。

目下の人間が、自分の意のままに動いてくれる。さらにどんどんエスカレートして、独裁者になってしまう場合もあるが…そうなってからもなお、力関係という呪いに縛られつつ、従ってくれる人たちはいる。

 

しかし、その立場がない場所では…逆に人の言いなりになっている場合もある。

例えば、仕事場では人をバシバシ動かしている人が、家庭内ではパートナーや子供たちと話し合ったり、意見をぶつけたり、議論すらできなかったりもする。仕方ない、うちの家族はそういう人たちだから…と、弱い自分に言い訳をしながら。

 

どんな環境であっても、自分のスタンスを変えずにその場にいること。自分を貫き通すこと。

それこそが、本当に強い人間の姿なのだ。

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卑しい人間の集まり

ゴミ袋ひとつください、と言われたときに

私たちのゴミ袋よね?と目くじら立てて

ゴミを捨てておいてください、と言われたときに

なんで私たちが?と目くじら立てて

 

人に注意されればいちいち言い訳をして

そのくせ自分の間違いには大甘で

目上の人に対しては絶対服従のくせして

力がない人のことはバッサリと切り捨てる

 

自分たちがこんなに頑張っているのに!と

認めてほしくて吠えている

とにかく自分たちが可愛くて

可愛くて可愛くてしょうがない

 

そんな

卑しい人間の集まり

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ひとこと吐かせていただきます

…ばっかじゃねぇの!

 

ところで…そんな卑しい人たちが

しみじみと

日々の幸せを感じることなんて

…あるのだろうか?

原点であるはずの場所

私には、発達障がい児の母親として原点と言える場所があります。

「発達障がい児・者応援団」を謳うその団体…そこにいたのは、私と同じような発達障がい児の母親、療育施設の先生方、行政関係者など。

様々な立場の人たちが集まって、発達障がい児が暮らしやすい社会を目指して活動しているその団体…自分の子供に発達障がいがあるとわかった当時はものすごく助けられたし、多彩なイベント等もあって、とにかく活動が楽しかったのです。

 

発達障がい児…時には困難に直面することもあります。特に幼稚園や学校でお友達とのトラブルに巻き込まれたり、逆にこちらが加害者になってしまうこともあります。また、こちらの主張がなかなか先生に認めてもらえない場合もあります。そんな時に、この団体の仲間たちが拠り所となってくれて、苦しい気持ちを分かち合うことができました。幅広いネットワークのおかげで、関係機関にうまくつないでもらえる場合もありました。

 

数年前、団体の代表であるAさんの息子さんが、学校の先生との間に起きたトラブルに巻き込まれました。先生の過失により事故が起きてしまい、息子さんが重傷を負ったのですが…その事実を隠蔽し、先生が責任逃れをしていたのです。その当時は、仲間のピンチにみんなで声を上げ、みんなで戦いました。そして、当事者である先生に謝罪をしてもらうところまで持っていくことができたのです。

 

その後Aさんは、団体の活動に加えて、地元の小学校でスクールカウンセラーとして働き始めました。直接学校と関わることで、発達障がい児が抱える問題により深く関わることができる、という目的があったのだそうです。

しかし…とある親御さんから、驚くような話を聞きました。

 

多動系の発達障がい児であるBちゃんは、入学したばかりの小学校でひどいイジメに遭っていたそうです。Bちゃんの強すぎる個性がうまく受け入れられなかったようで、上級生に目をつけられ、背中にカレーを塗りたくられたり、トイレのドアを開けられたり、暴力を振るわれるのも日常茶飯事だったそうです。支援級の担任の先生に相談しても信じてもらえず、逆にBちゃんが嘘をついていると疑われてしまったのだそうです。

困り果てたママは、その学校のスクールカウンセラーであるAさんに相談したのだそうですが…残念ながらAさんは、学校の先生側の立場に立ってしまい、ママの話を信じてくれなかったのだそうです。

Bちゃん本人は、私が我慢すれば解決するから、と思ってしまったそうですが…ママはBちゃんのために、Bちゃんを信じて戦いました。いろいろな機関に相談し、解決方法を探っていきました。そのおかげかどうか?はわかりませんが、今はイジメっ子たちとは別のクラスになり、担任も変わり、やっとBちゃんは落ち着いて学校生活を送れるようになったそうです。

本当によかった…でも、壮絶なイジメ体験はBちゃんの中に深く深く、トラウマとなって残ってしまっていると思います。

 

私はこの話を聞いて、代表のAさんに対して幻滅しました。だって、ご自身も先生との関わりで苦労をした経験があるのに、なぜBちゃんの苦しみをわかってあげられなかったのか。なぜママの話にもっと耳を傾けてあげられなかったのか。

下手にスクールカウンセラーになってしまったが故に、Aさんはいつのまにか「先生側の立場」で考えるようになってしまったのかもしれません。Aさん本人が気づかないうちに、原点にあるはずの大事な部分…「発達障がい児・者応援団」という立場がブレてきてしまったのかもしれません。

 

今回は代表のAさんだけではなく、団体スタッフの方も先生の立場を擁護していたそうです。その理由は、そのスタッフの息子さんがかつて、その先生にとてもお世話になったから…あの先生がそんな対応をするはずがない、ママの先生とのつきあい方にも問題があるのでは?と延々話をされてしまったのだそうです。

代表の方も、スタッフの方も、それぞれの立場や経験から得た考えや想いはあるかもしれません。それでも、私がこのママから聞いた話は緊急事態と言える状況であり、Bちゃんの今後の学校生活、今後の人生に大きく影響する局面だと感じました。

 

「発達障がい児応援団」を謳いながらも、壮絶なイジメに苦しんでいる親子の話すらも聞けず、寄り添う立場を忘れてしまった、私にとって原点であるはずの場所。

そこがブレ始めている今の状況では、もはやこれ以上、私がその団体に所属している意味すらないようにも思えます。

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なんだか、心にポッカリと穴が開いてしまった…そんな気持ちで過ごしている夜です。