樹安の日々インスピレーション

日々の生活の中での気づきを、徒然なるままに

人が死のうと思うとき

今の私は、ある意味八方塞がりの状態だ。

 

うちの子供たちは2人とも、軽度の発達障がいを抱えている。幼い時は療育施設に通い、上の娘は支援学校の幼稚部へも通った。そこで出会った仲間や先生方と、発達障がい特有の悩みを分かち合い、大変ながらも充実した毎日を送っていた。何より、子供の発達のためにできることは何でもやり、少なくとも前向きだったと思う。

そして、うちの子たちなりに発達段階が進み、今は地元の小学校の支援級に在籍している。でも、地元の子たちの中では浮いてしまううちの子たち…私自身も、悩みを打ち明けられる仲間は全くいない。幼稚部で一緒だった仲間たちは、ほとんどがそのまま支援学校へ行ってしまい、うちの子とは発達段階も違ってきているので、今は疎遠になってしまっている。

 

また、数年前から私はとある保育園で事務員として働き始めた。事務員とは言っても、子供たちがいる中での生活。私は子供たちと触れ合うことも楽しみにしていた。でも…実際に子供たちと触れ合うことは皆無だった。しかも、最低賃金のパート職なのに、実質事務員は私ひとり…つまり、事務長的な責任を求められる事務仕事が、山ほどあるのだ。

園長は当初、大変なことやわからない仕事はみんなで一緒に解決していこうと言っていた。でも、実際に面倒な仕事は私に丸投げ…なのに、対外的にはさも自分がやったかのように話すのだ。

 

そして、肝心な保育内容も…私が思っていたものではなかった。確かに面倒見はいいのだが、汚い言葉が飛び交い、園児の扱いも乱暴。特に私が感じたのは、発達に問題のある子供たちを、完全に厄介者扱いしているのだ。

この悩みを、今の私はまわりに打ち明けることができない。事務員としての悩みは私の立場でなければわからないことだし、園内のことは職員として秘密を厳守しなければならない。実際に、悩みを打ち明けたい人たちの子供がこの保育園に通っていたりもするのだ。そりゃ、園内のことなんて相談できないよな…。

 

最近の私は、本当に元気がない。自分でもよくわかる。自分の奥底にある想いを押し殺しているのだから、自分らしさなんて全くないと思う。

こんなときに、人は絶望して、死を選んでしまうのかもしれない。

誰かが死んでしまったとき、なぜ悩みを打ち明けてくれなかったの?と言う人がいるが、悩みを言えない時は言えないものなのだ。その人の中に、言えない何かしらの理由があるのだ。

 

私の八方塞がりは、仕事を辞めることでかなり改善するとは思う。先日園長に退職のお願いをしたのだが…一筋縄ではいかなそうだ。園長に打診し、一旦は受け入れてもらったのに、なぜか主任に引き止められている。園長は自分では手を下さずに、言いづらいことを主任に言わせているのか?または、主任が園長に気を利かせて自ら動いているのか?のどちらかだとは思うが…いずれにせよ、面倒なことになりそうだ。

まずは自分が健全にならないと。事務員の代わりはいても、自分の代わりはいないのだから。

そこを有耶無耶にしてしまうと、闇落ちして、死を選んでしまう可能性もゼロではない。

そうならないためにも…まずは「自分」をしっかりと、自分で守ろう。

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追記:あれから少しだけ元気になり、改めて文章を読み返してみると…「死」というものに対して、あまり深く考えずに書いてしまったかも…と思い、反省しました。

でも、この記事を書いていた時点で「死」に対してそう思ったことには間違いないわけで。

自分自身と、生と、死と。その境界線は、私たちが思うよりずっと低いのかもしれません。

だからこそ…こうして日々生きていることに、もっと感謝しなければいけないのかも…しれませんね。